みつまるライフ

福祉業界の資格や経験談、趣味や日常の出来事をご紹介★

MENU

その生命、本人は必要としているのか

そのサービス、ほんまに必要か?

医療技術の発展により、この国は長寿国家と呼ばれるまでに成長を遂げた。

そんな中、介護保険では在宅生活のニーズの高まりや健康寿命への意識の高まりが注目されている。

介護保険のサービスで高齢者の在宅生活を支える代表的なものとしては

等々、事業所の人間が高齢者宅に出向いてサービスを提供するといった形式が今はアツイらしいとか。

 

「住み慣れた街で」「住み慣れた家で」「その人がその人らしく」といったフレーズは福祉業界に身を置く人間であれば聞き慣れた、そして有り触れたフレーズではないだろうか。

以前に専門用語についてお話した事もあるが、フレーズだけに焦点を当てた場合、余りにも抽象的すぎる気がする。

視点を変えればこれらは場を収める着地点であり単に体裁を気にした都合の良い言葉に思えてならない。

 

前置きはさておき、これらの在宅サービスは現実味があるのか?

というのが今回の趣旨。

例えば日常生活動作においてはある程度自立しているが認知面が重度の場合。

または病状が芳しくないが本人の在宅生活の希望が強い場合。

事例を挙げるとキリがないが、こういった高齢者の意向を残された寿命に反映させるのが介護保険の目的。 ざっくり言えばね。

 

例を挙げた2点で共通するポイントがある。

私基準の考えだが常に人の目が必要となること。

この時点で在宅生活から施設生活へのシフトチェンジしたいところだが、どうやらこれを悪と考える法人もある。

法人理念が在宅を基準としているのか、まぁどういった経緯でそうなったのかは定かではないが、如何なる場合であっても本人が希望すれば在宅生活を継続させる事を美徳とする、といった具合か。

 

「利用者本位」を忠実に実現せんとする介護保険法の的を得た法人理念といったところだが疑問がある。

これは万人に当てはまるのか?

いや、当てはめようとしているのではないか?

勘違いしないでほしいが今回は法人やサービスの批判をする気は更々ない。

そもそも「利用者本位」の捉え方に法人、事業所、個人単位では差異がある。

人の想いや願いの真相について強いて基準を付けるとすれば、それは

言ったか言ってないか。

言い換えると言ったもん勝ち。

 

判断能力が乏しくなった高齢者に訪ねてみる。

「家と病院どっちがいい?」

多くの場合は「家」と答えるはず。

極端な例かもしれないが、この返事を大義名分としサービス導入というのはいささか忍びない。いや、場合によっては心が痛む。

施設レベルの高齢者に在宅レベルを求めるのは現実味がないかと。

 

よく混同されがちだが、希望とニーズは意味合いが異なる。

「利用者本位」に惑わされ、真に必要とするものを見失っているのではないか。

「利用者本位」に影響され、優越感に浸る事を正義と勘違いしていないか。

「利用者本位」に抑制され、周囲との調和が最優先されていないか。

社会的に正義であったとしても、正義の押し付けは単なる悪意でしかない。

正論で殴る、と言うやつだ。

 

不謹慎だが、人間には死に時がある。

人間力が尽きる時や経済力が尽きる時、そんな時に法人理念をはじめ社会理念だけを優先・重視した結果、他人に生かされ続ける高齢者は何を思うだろうか。

その高齢者にとって真に必要なのは「生」か「死」か。

自ら生きるのではなく、決められた枠の中で飼われ続ける事を望んでいるのか。

そもそも「生」に対しての執着心をどれほど持ち得ているのか。

無様に生に縋りつくのではなく、誇り高い死を望むのではないか。    

 

「その人らしく生きる」とは「その人らしく死ぬ」ことでもある。 

そして「生き方を選ぶ」とは「死に方を選ぶ」ことでもある。

その生命は本人が本当に必要としているのか。

言葉の背景に隠された本音は「生」か「死」か。

高齢者の援助方法についての判断基準である「利用者本位」を皆安直に捉え過ぎていないだろうか。

 

勝負の世界には、上手な負け方と不細工な勝ち方がある。

上手な負け方を最期とするならば、関わり方や支援の方針はじっくりと観察・検討する必要がある。

 

高齢者にとって必ずしも「長寿=幸せ」ではない事を忘れてはならない。

<