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帰宅願望の先にあるもの

帰宅願望と呼ばれる専門用語の落とし穴。

大袈裟かもしれないが、介護の現場には一刻一秒を争そう場面は数多くあり、特養をはじめとする施設サービスの夕方~就寝介助までを担う所謂「遅出職員」は夕食の準備や排泄介助、フロアへの誘導など、業務は山積み。

 

勤務時間内に業務を終えるには快調な出だしを切る為の事前準備に全てが掛っている。

『仕事は段取八分』とはよく言ったものだ。

 

毎回が順風満帆に、とはいかない。

鳴り止まないナースコールの対応や、時に利用者からの無茶な要求にも応える場面もある。

そんな中、必死で自我を保ち、必死で作り笑いをする。

この苛立ちを絶対に利用者に悟らせてはいけない。

 

「大丈夫、心配ないですよ。」

何の根拠もない無責任なこのフレーズを、無理やり造った笑顔で口にする事が日常的で自分自身に虫唾が走る。

利用者に安心感を与え、業務の合理化を図り、そして何より自分が良い職員であり続ける為に習得してしまった嫌なスキルのひとつと言える。

 

大抵の業務だけなら問題なく熟せている。

しかし、たったひとつ鬼門があった。

利用者Nさんの対応である。

 

16時を過ぎた頃、待ち侘びたかの様に居室内の衣類を纏め視界に入る職員に声を掛ける。

内容は「家に帰ります。」

あぁまたか、と心の中で舌打ちをしつつ今日も良い職員を演じる事にしよう。

 

Nさんの行動と会話の流れは熟知している。

決まった話に対して、決まった返答をすればものの10分で事態は解決。

RPGの分岐点で、選択肢させ間違わなければ主人公は問題なく次のイベントに駒を進める事が出来る。

自分にとってはNさんの一大事もRPGの攻略と同じ感覚だった。

今日もその10分を「如何にして短縮できるか?」だけに意識を集中させる。

 

Nさんの話の内容はいつもこうだ。

「◯◯町のNです。」

「△△駅から東に入った住宅地の✖番目の家が私の家です。」

「家の用事せなあかんし、息子に何も説明されずに来たから帰ります。」

「鍵も開けっ放しで心配やから今から車で送って下さい。」

「兄ちゃん、家に帰りたいねん。」

 

その日は時間に余裕があった。

二人分のお茶を入れ、席を用意し、さも初耳の如く傾聴するのもこれまた一興。

我ながら嫌な人間に育ってしまったものだ。

この決まり文句への必要な返事の内容・タイミング・表情さえ間違わなければ、今日も一件落着。

 

とはいかなかった。

 

Nさんの話の内容はこうだった。

「◯◯町のNです。」

「△△駅から東に入った住宅地の✖番目の家が私の家です。」

「あの家は主人と一緒に苦労して建てた家なんです。」

「しんどかったけど、子供も授かって楽しかってん。」

「息子はやんちゃでな、しょっちゅう近所の子供と喧嘩して帰って来るねん。」

 

この人、何ゆってんの?

 

困惑しながら必死にいつもの会話、必勝パターンに戻そうとする。

それでも尚、Nさんは話を続ける。

それも普段の困った表情ではなく、少し楽しそうだ。

 

この人、ホンマに何ゆってんの?

 

そう思った次の瞬間、Nさんはこう告げる。

「兄ちゃん、あの頃に帰りたいねん。」

 

言葉が出ない。

 

その後、私は何と答えたのか覚えていない。

覚えているのは、何か理由をつけてその場を足早に立ち去ったこと。

 

その日は特に問題なく業務を終える事ができた。

Nさんは何事も無かったのかの様に布団に入っている。

認知症の利点に救われたのだ。

 

 

数年後、私はその施設を退職した。

暫くして、元同僚からNさんがご逝去されたと連絡を受けた。

 

 

あれから更に月日は流れたが、今でもふとNさんの事を思い出す。

あの時、自分はNさんに何と言えば良かったのだろうか。

『帰宅願望』と呼ばれる専門用語だけに納得し、その本質を考える事が出来ていなかった。

 

専門用語は実に便利な代物で、多くの情報を一言に集約できるメリットがある。

しかし専門用語は、その物事や出来事をたった一言で片付けてしまう恐ろしさがある。

専門用語は名称や総称の類であり、決して『着地点』ではない。

いや、人の想いや願い・思想に対して着地点は有り得るのだろうか。

 

帰宅願望とは、単に場所に帰りたいのではなく

『あの頃に戻りたい』

そんな切実な想いであり、その人が一番幸せと感じていた事を指している気がする。

 

私は未だにあの時、Nさんにどんな返事をすれば良かったのか解らないままとなっている。

 

こうしている間も全国の高齢者は、残された力で、残されたフレーズで、私たちに『何か』を訴え続けている。

私達はこの何かを見逃してはならない。

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